BLOOD ON THE HORNS (2)

「M.ジョンソン氏、オバマ大統領再選キャンペーン試合に出場」って本当に!?

23日の録画は毎日少しずつ見るんだ~♪ 何だかんだ言っても他の番組よりは確実に楽しめます!

で、BLOOD ON THE HORNSの再掲で楽できるのはこれで終わり…(^_^;)

BLOOD ON THE HORNS
The Long Strange Ride of Michael Jordan's Chicago Bulls

by Roland Lazenby  
Published by Addax Publishing Group Inc.


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"You're gonna have to ask yourself, who do you trust?" -- The Devil's Advocate

1/ Power Days, Glitter Nights

たとえどこでプレーしようと、すべてのアリーナがマイケル・ジョーダンのために輝いた。試合前の選手紹介でコートへ足を踏み出すたびに、幾千のカメラのフラッシュが彼を迎えた。その現象はシカゴのユナイテッドセンターで最も華々しく、ジョーダンの名前がスターターの5人目にコールされるとき、イントロダクションは高まり、スポットライトと歓声は最高潮に達し、アリーナはストロボの瞬きで満たされた。その光はさらにオープニングティップでも激しくゆらめくが、フリースローのときが最もすごい。ジョーダンがフリースローラインへ向かうと、バスケット裏のファンは、高校時代のダンスパーティーのミラーボールか、夏の夜のホタルの群舞を思い起こさせる、目眩がするような閃光に埋もれた。

ファンはフラッシュカメラが禁止だと知っている。NBAのおしゃれで明るいアリーナにフラッシュは必要ない。それでも彼らはフラッシュを止めないし、どこのアリーナの警備スタッフも、その瞬間を記録しようとするスリルを黙認しているようだった。

そんな状況でどうやってフリースローが打てるのか問われたジョーダンは、慈愛に満ちた微笑を浮かべ、「とっくに慣れたよ」と答えた。

ジョーダンは常に、自分のファンを理解し、受け入れるスーパースターだった。とりわけ、彼にとって最後の年になるという兆しが広まった1997-98シーズンは、誰もが最後の日々を記録したいと願い、本人もそういうファンの気持ちを理解していた。たとえそれが遠い最上階から撮影した焦点のぼやけた写真であっても。ファンにとってその写真は、自分がそこにいて、実際に彼の偉大さを目撃したという証拠なのだった。家宝として箪笥にしまい込むような。マイケルはベーブ・ルースより有名だった、と、いつか孫たちに話して聞かせるために。

ベーブ・ルース? 実際にジョーダンを誰かと比較するなら、それはむしろ、プロバスケットボール界のもう1人の真に偉大なコンペティター、1957年から69年までの13シーズンでボストン・セルティックスを11度の優勝へ導いたセンターのビル・ラッセルであるかもしれない。醜い人種差別の最後の時代にリーグを支配したことは、ラッセルの運命だった。そこには、ファンの賞賛と共に強い嫌悪も存在した。どれほど昔のことだろう? ある時には、誰かがラッセルの家へ押し入り、彼のベッドに排便していった。怒れる若者には十分正当な理由があると思えたのだろう。

けれどもそれは、ジョーダンの経験ではない。どの試合でも、幾万のファンが彼に敬意を払った。数百人、時には数千人の人々が、通りに、アリーナの周りに、彼が泊まるホテルの外に、集まった。バスを降りるジョーダンやチームメイトを一瞥したくて。数え切れない人々が賞賛を送り、カードや手紙や花や贈り物や懇願で収納室を満たし続けた。

しかし、カメラのライトは間違いなく、彼の人気の最も正解に近い目安であった。目を見張らせるプレーのたびに、マイケル・ジョーダンの世界はきらめき、輝く天空がすべての動きを彩った。


3月中旬の寒い夜、雨にたたられたテキサス遠征を終え、ユナイテッドセンターでニュージャージー・ネッツを迎え撃つために、ブルズは雪のシカゴへ戻った。レギュラーシーズンは残り17試合、すべてのゲームがカウントダウンだった。フランチャイズ周辺の静かな緊張は、表面的にはほとんど窺えなかった。しかし、主要人物たちは全員、ジョーダンのキャリアとチームの先行きに最終段階が迫っていることをシーズン中ずっと感じていた。それは、誰が最初にまばたきをするか両サイドで待ち受けているチキンゲームだった。

「パワーの争いだ」と、ネッツ戦の数時間前、ディアフィールド郊外にある美しい練習施設、バートセンターのオフィスで、フィル・ジャクソン コーチはしわがれ声で説明した。1989年にチームの指揮を始めたとき、ジャクソンの髪は黒く、顔つきは生き生きしていた。時の流れは容赦がなく、今シーズンはなおさらで、彼の疲れた双眸はタウンズ・ヴァン・ザント(Townes Van Zandt)を思わせるくまで縁取られていた。

Livin' on the road, my friend,
was gonna keep you free and clean.
Now you wear your skin like iron.
Your breath's as hard as kerosene...

パワー、いかにも。 ブルズはチームの支配権をめぐる内部抗争に巻き込まれていた。シーズン開幕前に、1998年の秋にジャクソンが戻ることはないと発表したバスケットボール部門統括責任者兼GMであるジェリー・クラウスと、ジャクソン、ジョーダン、スコッティ・ピペンとの対立に。

「今年がそうだ」と、クラウスは言った。「フィルも私も承知している。全員がそう承知している」

ジャクソンの離脱を予定させることになった原因について、クラウスがきちんと説明することはなかったが、コーチとGMとの関係が限界に達していることは誰の目にも明らかだった。それは、メディアの大きな注目を集め、巨額のサラリーと巨大なエゴが絡む小さなビジネス、プロバスケットボールの世界では珍しいことではない。

クラウスの発表はやがて、10月のトレーニングキャンプ開始日に、ジャクソンが戻らないなら自分は引退するというジョーダンの返答を促すことになった。「フィルがここにいないなら、確実に僕もいない」と、ジョーダンは記者たちに告げた。

そのように、ずんぐりむっくりのクラウスは、ジョーダンをゲームから追い出す男という羨ましくない立場に自分を置いた。少なくとも、傍目にはそう見えた。実際は、擦り減った関係が複雑に絡み合う問題だったのだが。やがて、チームの行く末は、ジョーダンを見事に補足したスターフォワード、ピペンのキャリアをめぐる対立に至るだろう。

BLOOD ON THE HORNS (1)

どうにもこうにもしようがないので、無茶無理無謀は承知の上で、再び『BLOOD ON THE HORNS』でもやってみようと思います。1997-98シーズンのシカゴ・ブルズを追ったローランド・レーゼンビーの著書でして、ま、想像も省略も織り交ぜつつの~と言ってるそばからくじけそうですが、自己満足の暇つぶしということで。(^_^;)
(とりあえず前のブログから転載というか再録というか、こっちのカテゴリを整理)

BLOOD ON THE HORNS
The Long Strange Ride of Michael Jordan's Chicago Bulls

by Roland Lazenby  
Published by Addax Publishing Group Inc.


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私は真の雄牛を望んだ。闘牛の雄牛を。ほら、長い角と赤い目を持ち、黒く、たくましく、意地の悪そうな。意地の悪そうな顔つきがほしかったんだ。初期の提案は全身のデザインばかりだった。頭を下げて身構える雄牛、そんな感じの。私は「顔だ、顔だけにしてくれ」と要求した。そして、素晴らしい顔がデザインされた。私はさらに、「この目を赤くして、鼻に血をつけるか、鼻孔を赤く染め、角の先も血で濡らしてくれ」と求めた。彼らは見事にやってくれたよ。それがこのチームのシンボルになった。―― デザイナーたちと共にチームロゴを作り出した1966年の仕事について、シカゴ・ブルズの創設者、ディック・クライン

序文 (抄訳)
A Room with a View

わが父、ウィリアム・ローリー“ホッパー”レイゼンビーにこの本をささげる。“ホッパー”というニックネームはバスケットボールからつけられたものだ。1920年代にバージニア工科大学の最初のバスケットボール奨学生の1人だった伯父のクライドは本当に優秀な選手だったし、フェイクの達人だった私の父と私の兄のハンプトンもなかなかの選手だったが、私は違う。けれどもそれは、私が情熱を込めたピックアップ・ゲームを続ける妨げにならなかった。現在45歳の私だが、膝やかかとに痛みを抱えながら、まだ1週間に3日か4日はプレーを続けている。ここ数年は、どうして自分を拷問にかけ続けているのか、しばしば疑問にも思いながら。通常その質問には、ゲームについて何かを書くつもりなら、とにかく日常的にそのゲームをプレーする礼儀を持つべきだ、と答える。しかし、自分の心の奥底には他にもっと大きな理由があることを私は知っている。私がプレーを続けるのは、1981年に亡くなった父を身近に感じられるからなのだ。

だから、フィル・ジャクソンがゲームの霊的な側面について話すとき、私は彼が話していることを良く理解できる。

私は今、自分のブルズへの愛着心を説明するために、これを述べている。世界中には、それぞれの理由でブルズに愛着を持つ何百万というファンがいるだろう。

これは私の理由だ:ブルズはゲームの特別な守護者たちによって構成された、特別なチームである。マイケル・ジョーダンは確実にその1人だ。しかし、最も重要な守護者は、本人が『サイドライン・トライアングル・オフェンス』と呼ぶものの発展にプロ人生を捧げてきた76歳のアシスタントコーチ、テックス・ウィンターである。それは、ウィンターが南カリフォルニア大学時代にサム・バリー コーチの下でプレーしながら最初に学んだゲームのための理論的枠組だ。トライアングル・オフェンスは、それを学ぼうとするNBAプレイヤーたちを大いにイライラさせてきた。それでも、ひとたびトライアングル・オフェンスを身につければ、最初は複雑に思われたゲームが驚くほどシンプルになる。それは、ボールを動かす概念に基づいた古典的なオフェンスであり、より優れたプレイヤーがより劣るプレイヤーとボールをシェアしなければならない。要するに、マイケル・ジョーダンのようなプレイヤーがディッキー・シンプキンスのようなプレイヤーを信頼しなければならないということだ。それはチームワークの本質である。テックス・ウィンターが指導するトライアングルは、プレイヤー全員がディフェンスを読み、フロアのオープンエリアへカットすることを求める。結果として、ゲームに動きが生まれ、ブルズが実行するモーションは、目もくらむばかりであった。

これはもちろん、つまらないアイソレーション・オフェンスを実行する他の28チームの大半と明確な対照をなす。1人のプレイヤーがバスケット近辺に陣取り、4人のチームメイトをペリメーターに配して、ディフェンスがダブルチームへ行くのを待つというアイソレーション・オフェンスも、それはそれで、誰かがパスをすることにつながるのかもしれないが。

私の友人、CBSのビリー・パッカーは、1998年のシャーロット・ホーネッツ対アトランタ・ホークスのプレイオフを観戦したが、あまりの退屈さにうんざりして第3クォーターで席を立ったという。

それは私をテックス・ウィンターの後見役へと連れ戻す。彼は、バスケットボールの過去が未来であることを知っている。金勘定よりそちらを考慮するNBAチームは決して多くない。フェニックス・サンズは1996年の10月から11月にかけてトライアングル・オフェンスの導入を試みたが、最初の10数試合に連敗し、さじを投げた。「あれは本当にトライアングルをやっていたのかどうか」と、当時フェニックスに在籍していたブルズの控えセンター、ジョー・クラインは冗談を飛ばす。「もしかすると四角形だったかも」

その冗談は、ブルズのアシスタントコーチからダラス・マーベリックスのヘッドコーチに転身したジム・クレモンズにとって、あまり面白いものではないだろう。自分のチームにトライアングルを導入しようとしたクレモンズは、選手たちの反発をかっただけだった。正しいゲームを身につけるのは時間がかかる。今日の若い億万長者たちに、そんな暇はないようだ。

それは、1990年と91年のブルズがオフェンスへの適応に苦しんだことで、はっきり実証されている。ウィンターはまさに、ブルズにトライアングルを導入することへの確固たる決意が、ヘッドコーチとしてのジャクソンの偉大さの始まりだったと指摘することを好む。そして、それはブルズの偉大さの始まりでもあった。

ゲームの初期、昔のプロ選手にはパッシングゲームを言い表す慣用句があった。彼らはそれを「ボールを歌わせる」と呼んだ。

ブルズはもちろん、この10年で数限りなくそれを実行した。ジョーダンの素晴らしいオフェンス能力と、ウィンターの古風なアプローチは、数百万のファンをワクワクさせた。その上、ブルズは対戦相手を完全に圧倒した。怠惰に流れてアイソレーション・オフェンスを思いつくチームがブルズに叩き潰されるところを見るのは、私の喜びだった。それらのチームがまだメッセージを受け取らないということに、私は落胆する。ブルズの偉大さは、ゲームをそうプレーすべきであるようにプレーすることへの、マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピペンの献身によってもたらされている。

1998年の春、ウィンターは再び、今まで何度も見送られたネイスミス・メモリアル・バスケットボール・ホール・オブ・フェイムの候補に選ばれた。もし今回も彼を選ばないのなら、関係者は殿堂を閉鎖して鍵を投げ捨てるべきだ。

それこそ、私がこの本を執筆した理由なのである。6度目の優勝を目指すブルズは、権力闘争に巻き込まれ、崩壊しようとしていた。ろくでもない状況だ。そのせいで、最も優れたゲームの守護者たち、ジョーダンとウィンターのキャリアを終わらせ、ひいてはゲームそのものを脅かしそうだったのだから。

私は理由を知りたかった。

そして、この本はそれに答える試みである。

かつて、デトロイト・ピストンズでプレイヤーたちのエゴの操縦を余儀なくされたチャック・デイリーは、「ゲームはシンプルだ、が、人間は複雑だ」と言ったものだ。

ついでながら、ピストンズは2度優勝しただけで、自分たちの結びつきが完全に消耗していることを自覚させられた。内部に大きな問題を抱えながらも強くなり続け、6度の優勝を達成したことは、ブルズを形成した偉大な競争者たちへの素晴らしい証である。

要するに、ブルズを崩壊の瀬戸際へ押しやったものは何か?

簡単な答えはない。しかし、1つ答えを見つけなければならないとしたら、私は「ジェリー・クラウスGMの不安」と言うだろう。

しかしまた、何がブルズを6回優勝させたか答える必要があるなら、「マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピペン」の次の答えは、「ジェリー・クラウスの不安」であるだろう。

実際は、彼ら全員に崩壊の責任がある。ジェリー・クラウス。フィル・ジャクソン。スコッティ・ピペン。マイケル・ジョーダン。ジェリー・レインズドーフ。テックス・ウィンター。ちょうど彼ら全員が、得も言われぬ甘美な、あまたの勝利の瞬間に関与していたのと同じように。

それは、クラウスを毛嫌いするマイケル・ジョーダンやスコッティ・ピペンを喜ばせる記述ではない。そして私は、ジョーダンやピペンの気に障るような記述をすることを心からすまなく思う。なぜなら、彼らは素晴らしいバスケットボールチームの巨大なハートであるから。しかし、それは真実なのだ。

どうして彼らはクラウスをひどく嫌ったのか?

ピペンがクラウスを嫌った理由は、自分をトレードしようとしたことを最大の侮辱と考えたからだ。

ジョーダンもまた、ピペンをトレードしようとしたことと、ジャクソンとの不和のせいで、クラウスを嫌った。それはどちらもチームの競争力を阻害する行為であり、ジョーダンは何にもまして、戦いを邪魔するものを許さない。

それ故に、1998シーズンが終わるとき、ブルズファンはチームの権力闘争と崩壊の危機に直面した。それは、ジャクソンやウィンターやラインズドーフが、けりをつけ、前へ進もうとしながら動きが取れない状況での、クラウスとチームの2人のスーパースターとの支配の問題だった。あるいは、それに近い何か。

それは私に父のセットショットを思い出させる。彼は1930年代と40年代にウエスト・バージニア南部のセミプロリーグでプレーしていた。私は遅い子供だったので、父のプレーを見ることはできなかったが、思い出話はいろいろ聞かされた。当時最高のプロチーム、オリジナル・セルティックスとの対戦でシュートを決めた話など、本当かどうかは分からない。けれども私は信じている。父は私が生まれる前にひどいやけどを負い、h-o-r-s-eゲームか軽いワン・オン・ワンしかできなくなった。我が家のドライブウェイには12×12のコンクリートのコートがあったが、父はフープからゆうに30フィート以上ある横庭の楡の巨木の辺りからシュートするのが好きだった。一方へフェイクし、前へ踏み出し、両目が見開かれ、両手セットのシュートが放たれ、小さな歓声がもれる。それは彼流のトラッシュトークだった。

もちろん、父からの本当のレッスンは、人生にはh-o-r-s-eゲームと同様の、広いパラメーターが必要だということだった。

ある日、権力闘争について話していたフィル・ジャクソンの言葉で、私は父のことを思い出した。ジャクソンは、クラウスがいかにして、常にピペンとジョーダンに対する何らかの支配を確立しようとしているか話していた。「すべてはコントロールの問題なんだ」とコーチは言った。「支配欲がすべてだ。コントロールの感覚を持つのは良いことだと思うが、個人の境界線は拡げなければならない。開放的な状況を狭めれば、誰かが四六時中フェンスに突き当たることになる」

巻き込まれた人々が大きければ、限界もそれだけ広くなるようだ。

そこから私は、素朴な考えに達した。主要人物全員を1つの部屋に集め、それについて論じさせたらどうだろう? 彼らは皆、怒りから行動し、互いを傷つけ合っている。彼ら全員が、それぞれに痛みを抱えていた。なぜ話をつけないのか? そこである日、私はジョーダンに尋ねてみた。

彼は私にいぶかるような視線を向けた。
「平和的な話し合いで?無理だね」
「どうしてもっと簡単にいかないんだい?ともかく話し合えば?」

「僕たち5人全員を1つの部屋へ押し込んで」と彼は言った。「お互いに自分たちの苦痛や悩みを告白し、すべてを乗り越えて先へ進む。うまくいくためにはそういう作業が必要だったね」
「あのさ、僕は自分の悩みの大半を早い時期に整理したし、今だって、以前と同じ完全性と決意で自分の仕事を続けているよ」

彼は暗に、クラウスが自分の痛みをやり過ごせず、それどころか、個人的な問題が勝利の妨げになることを許していると指摘した。それは、ジョーダンにとって考えられる中で最大の罪悪である。

「痛みも苦悩も傷もすべてわきへ置き、自分がやるべきことを考えなければいけないんだ」と、ジョーダンは言った。「ただ悪意を抱えたまま座っているつもりなら、なぜ僕はキャリアを続けるべきなのか・・・もし僕がその瞬間を忘れていなかったら、100%の力を発揮しなかったり、報復を考えるだろう。でも、僕は勝利を心に刻んで前へ進んだよ」

パラメーターが、彼らを座らせ、決着をつけさせるのに十分な大きさでなかったことは明白だ。

したがって、この本はその部屋の非常に劣ったバージョンになった。すべてをテーブルの上に広げる試み。その部屋の光景。

ブルズのために。
彼らのファンのために。
私の父のために。

1998年6月15日
ローランド・レーゼンビー

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